そうやさん語録 05

二宮金次郎ん水車の天理

写真 二宮金次郎ん水車の天理 二宮金次郎の教えは多数ありますが、ここにあまり知られていねい教えを紹介したいと思います。彼は自然現象を天道と称し、人為的作為を人道と称しました。この両者を区別して哲学し人生の在り方を教えました。そしてこの天道と人道を回転する水車に従い回転し半分は水流に逆らって回転します。水車全体が水中に没すれば回転せず、また水から離れれば回転出来ません。知識だけをもの言うだけでは実働しないよな人は水が無くなった水車のようなもので回転しません。また、義務を負わず私利私欲に走れば全部水中に沈めたようなもので共に社会の用には足りません。ゆえに人道は中庸を尊び水車の中庸はよろしき程に水中に浸り半身は水に従って回転することであり、人の道もそのように天理にした種を蒔き育て実ると天理に逆らって刈りとり人の食とします。したがって欲に従って家業に励み、欲を制して義務を果たすべきであると教えています。しかし今の世界に状態はどうであろうか。まるで水車が水中に没したごとく回らず全体が押し流されそうであります。さらに日本はどうか。水が無くなって回転が出来なくなった所と水中に没して今にも流れ出すような所と両方が1度に来たような状態で大変危機感をあおっています。少子高齢化問題、払い切れない様な国の借金、談合問題、数え切れない程の難問が山積みされています。それ等をきちんと整理すべき責任があるべき人達が党利党略を得んとして喧々諤々と大騒ぎしている感がしてなりません。早く気がついて水車が中庸を得て正常に回転してもらうことが国民の1人として願うものであります。 2005年 山ちゃんの瓦版 第78号

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鯉馬鹿日記

写真 鯉馬鹿日記 錦鯉の産卵と孵化は数年間、続けて行って来ましたが稚魚になってから病気にかかってしまって全滅してしまったりして失敗の連続でありました。去年生まれた稚魚は成績もよく土地で年越えし鳥にも食べられずに成長し喜んでいました。ところがある日オーバーフローパイプから逃げ出した稚魚が川で群れをなしているので近所の人が親切に取ってきてくれました。それをビニール袋の水と一緒に池に戻してやりました。数日すると魚の泳ぎがおかしくなり始めました。それまでは群れをなして泳いでいるのがばらばらに1匹ずつに泳ぎ水面に浮かんで口をパクパクするようになってしまいました。もう、その時は手遅れで翌日には池一面真っ白になり死んでしまっていました。何が原因かわからずにがっかりしてしまいました。1年の苦労が水の泡に帰してしまいました。そのままにしてもおけず、池を干して一匹ずつバケツに拾い上げましたが数十杯になりました。失意落胆してしまいました。愛鱗会の仲間に聞いてみたら川に逃げた鯉と水を池に戻したのが原因だろうと大方の意見でした。気を取り直し池の水を空にし乾燥させ石灰を撒布し消毒しその後鶏糞を撒きミジンコを生ます準備をしました。口で言うのは簡単ですが重労働です。今度は直径2m、深さ80mのカンバスに産卵用の網を吊り下げ産卵した卵が付着する金蘭と言うナイロン製の細い布状の帯を入れてから水を張り2~3日水をなじませます。先に雄鯉を入れ1回遅れて雌鯉を入れて産卵を待ちます。2日もたつと金襴に白くやっと見えるほどの卵が付着します。親鯉を取り出し水を消毒して孵化を待ちます。5日ぐらいたつと孵化が始まりますが目に見えないような小さなもので稚魚とは言はず毛子と呼ばれます。2~3日して全部孵った頃を見計らってミジンコの居る土地へ放流しますが小さくてどこへ行ったのか見当りません。今年は5月25日に土地へ毛子を放流しました。1カ月位たつと少し見えるようになりますがやっと1cmぐらいです。放流8週目に第1回の選別をしました。(7月21日~22日)第2回の選別は8月28日〜29日に行いました。数万匹いた稚魚は約925匹に厳選されてしまいました。残れなっかた鯉は西武子川に放されましたが1週間ぐらいたつと皆、白鷺に食べられて姿も見えません。自然は厳しいものです。第3回の選別は10月末の予定ですが最後に残れる数は見当がつきませんが夢をもって失敗しないように祈りながら餌を上げています。 2005年 山ちゃんの瓦版 第79号

只見川の錦鯉の放流に思う

写真 只見川の錦鯉の放流に思う 平成17年10月1日、福島県大沼郡三島町の只見川の錦鯉を放流してきました。平成5年の秋より放流を開始して12年になりますが、町の人からは見たとか釣った人がいたとか話を聞きますが、年に1、2度ぐらいしか行かない私には見る事が出来ず残念ですが、居るという話を聞くと放流にも力が入ります。今回は50cm位の鯉が主流で、約70〜80匹放流しました。只見川と支流の大川の合流点に主に放しました。川の水に慣れるまで4,5匹位の群をなして廻放していますがそのうちに慣れると本流を泳いでいってしまいます。永い間、飼育していた鯉と別れるのは元気に生きていてくれると思う気持ちと、一抹の寂しさを感じます。今年は宿に近い所にもう1カ所、放流に適した所があったのでそこへ放流しました。宿の女将さんに来てもらい残飯でも良いから撒いて下さいと頼んだら早速持って来てくれて撒いてくれました。餌付けばそこに居付くかもしれません。その日は一泊し翌朝見に行ったら泳いでいましたので元気でいてくれよと祈りつつ帰路に着きました。10月14日に宿へ電話をしたら未だ居るのと話しでしたので安心しました。多分寒くなれば本流に下ると思います。10余年も放流を続けましたが、余りにも川が大き過ぎて見えるようにはなりませんでした。あまりにも夢が大き過ぎたので自分としては分度をわきまえない計画を立てすぎたことに少し後悔もしてありますが、遠大過ぎた遊びだったと思ってあきらめています。 2005年 山ちゃんの瓦版 第80号

「不撓不屈」特別試写会に参加して

写真 平成17年11月19日にみんなで「不撓不屈」を見る会の世話人代表のかたかたよりTKCを通じ鹿沼市の関口会計事務所(元飯塚会計事務所)へ不撓不屈の映画試写会の招待状がきました。招待を受けた人は関口所長と本間和一様でありましたが愛経会会長の私も同行するようにと、大変恐縮しながら名誉な事なので参加させてもらう事にしました。この映画の原作は経済小説作家高杉良先生で、故飯塚毅先生を主人公とし、その半生を描いたものです。詳しくは「不撓不屈」をお読みになって下さい。私が聞き知った断片的な話ですが先生は鹿沼農商高校の商科に入学され成績は常にトップであったそうです。在学中から雲厳寺の植木義雄老師に参禅し修行を積んだそうです。卒業後は家業が布団屋だったので両親からは西川ふとん店に就職するように言われたそうですが、担任の先生がそれでは折角の頭脳が生かされないと両親に進学を薦めましたが、経済的に大変だったので許されなっかたのですが本人は強く進学を望んだのでしぶしぶ認められたそうです。福島高商に入学しましたが経済的に下宿など出来ないので近くのお寺に厄介になり寺の拭き掃除をして通学したそうです。その後は東北帝大法学部に進学し同じように寺住まいをし心神を鍛えながら勉学に励みました。戦時には陸軍に召集されましたが終戦で除隊し昭和21年に鹿沼町銀座に飯塚会計事務所を設立しました。試写会の当日は北鎌倉の円覚寺の先生の墓に詣てから会場の角川ヘラルドピクチャーズ本社へ行きました。出席者は1班・2班に分かれ総勢約60名ぐらいでした。映画は昭和37年6月24日日に飯塚会計事務所及び鹿沼、東京の関与先に対して税務当局の大がかな税務調査に入る所から始まりました。その原因は飯塚事務所が関与先に「別段賞与」として従業員に出した賞与が脱税行為であると税務当局が指摘し約7年間も飯塚毅先生が税務当局と争って最後に勝利するというストーリであります。血の出るような苦闘と涙の出るよな2時間に渡る物語でした。飯塚毅先生の不撓不屈の精神は何によって培われたのでしょうか。唯々感激の2時間の映画鑑賞会でありました。 2005年 山ちゃんの瓦版 第81号

あれやこれや

写真 まもなく団塊の世代の人達が定年を迎え多数の人達が離職する日がきます。各職場においてどんなベテランでも定年制があり退職しなければなりません。天降が出来る人、再就職が出来る人は一握りもないでしょう。その人達にもやがては退職の時期がきます。このような人達が健康で楽しい老後が送れる社会を用意しておく必要があります。 *在職中は仕事一本槍だった人達は趣味を持たず過ごした人が多いはずです。退職後は何か趣味がなければ老後は空しくて生きるのは至難でしょう。無趣味な人は何か始めると良いでしょう。趣味は十人十色でそれぞれ道がありますが、一例として物作りを考えてみましょう。それは多種多様で物によると材料費がかかるものもあります。だんだん熱がはいると作り過ぎて、作品の山が出来て置き場に困りあげくのはてにはもらい手も無くなり、さりとて捨てるには惜しく、ゴミの山となり埃が付き家中の厄介物になり、趣味もやがてあきれ果ててしまいます。その様にならない方法を考えておかねばなりません。 *その方法の一例があったのです。それは大田原市美原3丁目潟Aイ電子工業(高橋徳経氏)傘下の株式会社玄人軍団の手すぐり民芸品とアイデア商品の店「あれやこれや」です。場所は西那須野郵便局の隣にあります。間口4.5間奥行き7間の立派な店に成長しています。 *作るより売る方が大変です。最初は趣味で作ったものが売れるかと抵抗があったそうですが、最初に売れた物は小石に色を付けて描いた達磨さんだったそうです。作者は80歳を超えたおじいさんで、売れた喜びで作品に熱が入り生きがいを感じたそうです。それから持ち込まれる作品は千差万別で店中に所せましと陳列されています。現在出品している人は約230人以上で銘銘に違ったものを出品しています。 *例えば木製品の自動車の模型、竹がご、竹で作ったかぶと虫、鈴虫、今にも動きそうです。陶器、仕立て直しの依頼、手や足の不自由な人が使える楽おり器、パンフラワー、石粉粘土で作った草花等等、6,000点以上、何でもあると言っても過言ではありません。それも皆玄人はだしの製品ばかりです。格安な商品ばかりなのでお客は絶えることなく店内を見て歩き気に入ったものを求めいくそうです。 *作者は作った物が売れることに自信と感激し製作意欲も沸き生きがいを感じるわけです。どこの町にも民芸、手芸の達者な人が沢山いると思いますが、作ることは簡単ですが販売は苦手で売って歩く事は出来ません。同行者が集まって会を作り知恵を出し合って鹿沼市にもあれやこれやみたいな店が出来ないものでしょうか。更にそこが退職者のお茶飲み場や談話の会場になったらいかがなものでしょうか。1つの社交場になると思います。或いは単なる社交場だけでなく今までの豊富な経験話から建設的なアイデアも生まれると思います。そのようなものが社会に取り入れられて利用出来ればただ年をとって老けて行くだけの人生に歯止めがかかり精神的若返りの一助けになるのではないでしょうか。 2005年 山ちゃんの瓦版 第82号

がんばれ、鹿沼っこ!

写真 新年明けましておめでとうございます。 今年は戌年で十二支の第十一番目で、方角は西北西で昔の時刻で午後8時頃だそうです。 今年は早々に日本海側で例年に無い大雪に見舞われ大変な事になり、さらに去年の解決残しの建築問題が毎日テレビを賑わし国民が心配している所、今度はライブドアの問題が起き、天災、人災の難問続き、この先何が起きるかと心配でなりません。 しかし、明るい希望もあります。3月には新宿駅発のJRの電車が、宇都宮線の栗橋駅から東武日光線に乗り入れになり、それが日光、鬼怒川方面に行く事になります。(前栃木県知事・国会議員福田昭夫氏の働きによる) それにより新宿方面のお客様は、乗り換え無しに直通で行けて便利になり、観光客が増える事が見込まれ大変結構な事であります。その関係の方々はなお一層サービスの努力をして誘客に励んでいただきたいと願うものです。 元来、今市、鹿沼、栃木は日光の門前町として栄えてきたもので、日光の繁栄とは無縁ではありませんでした。これからは関連を深め共に栄える事を考える必要があります。旅行客が増えて鹿沼を通過するのを腕をこまぬいて見ているだけでなく鹿沼駅へ途中下車をして鹿沼を散策してもらえるような魅力ある町にしなければなりません。それが鹿沼にあるのです。彫刻屋台です。 1つ目は、麻苧町の木のふるさと伝統工芸館です。そこには彩色彫刻黒漆塗屋台が展示されています。それは市指定文化財であります。その他伝統工芸品の鹿沼箒、組子書院障子、総桐箪笥、きびがら細工、竹製小鳥籠等が飾られています。2つ目は、屋台のまち中央公園です。ここでも代表的屋台が展示されています。観光物産館もあり地元の土産品が売られておりお休み処も用意されています。特記すべきものは掬翠園と言う庭園があり慶雲郷、観濤居と呼ばれる建物があり茶道、華道に使用され、樹木、庭石、碑塔など見るべきものが多くあります。3つ目は、文化活動交流館がありここにも展示されています。近くには川上澄生美術館もあり文化ゾーンであります。 これらをうまく巡回して見られるように企画して誘客すべきであります。それを鉄道会社にお願いしてパック旅行に組入っていただき鹿沼の文化を宣伝に利用すべきと思います。同時に駅前広場を整備し駅前通りには鹿沼の特産品店が並ぶように改革をすべきであります。 それには鹿沼市民がやる気を起こす必要があり腕をこまぬいては駄目です。チャンスを逃しては駄目です。市民の皆さん、立ち上がろうではありませんか。

8人で日本縦断駅伝に挑戦!

写真 8人で日本縦断駅伝に挑戦! 埼玉県加須市に平成国際大学があります。この大学は昨年箱根駅伝に出場する予選会で11位に終わり出場出来ませんでした。この悔しさを払拭するために陸上部の活動を終えた4年生の1人が「箱根駅伝を超える駅伝を皆でやらないか」と提案したら全員が賛成しました。 コースは北海道最北端宗谷岬から九州最南端の鹿児島県佐多岬までで、走れなかった箱根駅伝の片道110kmのコースも含まれます。1人が約3時間走って次の走者にタスキを渡し8人で1日中雪が降っても雨が降っても夜通し走ります。 寝泊及び休憩は、メンバーの父親らが伴走する車の中で足を伸ばして休める状態ではなく、非常に窮屈であり疲れは取れそうもありません。それを克服して走るのであります。学生時代の夢の情熱を形に残そうと決心したのであります。 そのメンバーは中澤優司(茨城県)・佐藤公宏(栃木県)・風間悠平(東京都)・小磯秀治(埼玉県)・佐藤久斗(秋田県)・西野公大(千葉県)・平田瞬一郎(神奈川県)・中川知之(富山県)の8名であります。このメンバーの1人佐藤公宏君は、我が社の佐藤工場長の長男であります。 3月12日栃木県の国道4号線を走るというので応援に出掛けました。午前5時に出発して小山市へ向かいました。着いた時にはもうすでにランナーは走り去っていたので更に間々田へ向かいました。まだ薄暗い歩道を1人で走っているのが見えたので追い越してセブンイレブンへ入ったら伴走の人達がいました。車を入れて面会をしました。 その中に期待中の佐藤公宏君もいたので記念写真を撮ったりしていたらランナーが走り去ったので、又追い越して古河市まで行き待って、走る姿も写し励まして帰って来ました。 ランナーの人達は皆元気に交替し佐多岬まで完走する意気込みで一杯であります。事故などなく完走することを祈って別れて来ました。 宗谷岬から佐多岬まで約2930kmを8人で完走すればギネス物であります。3月6日にスタートして3月19日ゴールの予定でありますから瓦版が発行される頃には完走しているはずです。 このメンバー8人は、完走し終われば大事業を果たした自信を胸に秘めてそれぞれ故郷に錦を飾るでしょう。そして完走した体験を無にせず故郷のために役立てて下さることを祈ります。 見事、3月19日予定通り日本縦断駅伝完走したのです! 山ちゃんの瓦版 第85号

遠方より友来るまた楽しからずや

写真 旅先に居たら7月6日に岩惣さんのご夫妻が鹿沼へ寄るから帰るようにとの電話があったので急ぎ帰ってきました。    岩惣さんは、広島県安芸の宮島の岩惣と言う旅館の経営者で岩村隆文様のことです。平成5年9月に旅行した2泊目の旅館です。そこに宿泊したのがきっかけで、天井を蹴った男牧民湯澤三千男の伝記を書くに至った宿であります。 岩惣さんは、明治天皇や皇族の方々や伊藤博文、夏目漱石、吉川英治先生が宿泊されている超一流の宿であります。その旅館のご夫妻がわざわざ我が家を訪問して下さるなどとは大変名誉でもあり恐縮の極みであります。ご夫妻は鬼怒川の花の宿松やの女将さんの叙勲の祝賀会に出席するために来県されたのでありますが、それにしても私にとっては大変嬉しいことでありました。 6日の午後3時45分JR鹿沼駅に着くので家内と2人でお迎えに行きました。岩惣の奥様は純白のスーツでしたので一瞬鹿沼駅が明るくなったような感じでした。我が社の事務所では、湯澤三千男さんの本を書いた昔話に花が咲き語り尽きない短い時間でしたが、その間奥様に萩茶碗でお茶を点てていただくなどと楽しいひと時でありました。   湯澤三千男さんの本一冊を発行するには岩惣さんにはご協力をいただきそれが縁で今でもお付き合いさせてもらえるのは本当に男冥利につきません、有難うございました。  健康で私共夫婦は再度宮島のもみじ谷を訪ねたいと思っています。 山ちゃんの瓦版 第89号

湯澤三千男の投機病論

写真 少し古い話で恐縮ですが、昭和17年2月17日内務大臣になった湯澤三千男の少年時代の話をしてみたいと思います。彼は明治21年5月20日鹿沼市上久我(旧加蘇村石裂)に生まれ、後に東京開成中学校に入学し4年生の時開成詞華選若き心に投稿した論文投機病論を紹介します。  論文を全文紹介は長くて至難でありますので要約して言えば、一攫千金、濡れ手に粟、富くじ等勤労をせず富む事を考える病気が蔓延すると国が亡ぶと言っています。恐ろしい病気です。投機的精神病は、堕情な人が侵され易い病気で富と名誉を自ら生産しようとせず、他より略奪しようとするが如きは報いが必ずくる。一家、一国の発展は自ら働きて生産する事とも言っています。勤勉者は立身出世し、怠け者は滅びる、これが世の正道であり富は生産にあり、生産の最大要因は勤労、労力にあるとも言っています。 近世、堀江某、村上某が株を操作して民間人を惑わせ大変な利益を得ましたが、今は裁判にかけられて判決待ちでありますが、これも投機病にかかった患者の一人でしょう。   現総理は再チャレンジと言っていますが、投機病にかかると再起は無理と思えます。恐ろしい病気ですからかからないように注意すべきです。 このような名論文を100年前の17歳の時発表した彼は天才的才能の人とも言えるでしょう。鹿沼人は先人湯澤三千男を再評価して学ぶべきです。 山ちゃんの瓦版 第92号

母を偲ぶ

写真 10月22日、母の葬儀に際しましては皆様方にご会葬いただき御礼申し上げます。 母は明治41年2月10日に元今市市明神に生まれ、小学校卒業後は宇都宮実践女学校を卒業し、今市市の塾に習いものに例幣使街道、十石坂を通り2里もの道を歩いて通ったそうです。当時、東武日光線はなく歩くしか方法はありません。そんな気丈な人でした。後、鹿沼の山崎家に嫁いで2男3女の母として子を育て家の柱として農業に従事し一家を支えてきました。父は病弱でして昭和38年2月28日他界しました。 父は生前耕作をしていた田を母に相談なしで売る契約をして少しの手付金を受け取り仮登記をされてしまいました。そのまま残金を受け取らず他界してしまったのでした。母は夫の死後契約書を見て驚きましたが、再三契約書を見直してこの契約は破談出来ると確信し相手に交渉するように私に命じました。 相手側から返事として約定書が送られてきました。それには破談金倍返し、破談の謝礼金100万円、1日遅れると1日に付き10万円支払うと言う内容でした。私は家督は継いだもの家には田畑はあってもお金はありません。相手はそれを承知の上で約定書を突き付けてきたのです。約定書の相手は3名の連名で、その中の一人は私の相続の手続きをした人の名前も連記してありました。故に私の所にはお金が無い事を承知の上で約定書を突き付けたものと思えます。私はその書を持ってあらゆる知り合いを尋ねて相談をして歩きました。救う神もありまして、これは脅迫状とも取れるから警察署へ行くようにとも言われましたが解決には程遠いものでした。 満策尽きて裁判しかないと手続きをしました。その翌々日相手側から呼び出しがあり代理の人に行ってもらったところ、「約定書を返してくれ、今までの事は無かった事にしてくれ」と言う話で何が何だかわけが分からず帰ってきてその話を聞かされて狐にでも騙されたような気でただ唖然としました。今までの約半年間かけて歩いたことが何であったのか理解出来ませんでした。 唯ひとつ思い当たる事がありました。相談にのってくれた人が約定書に署名した一人の人に「あんな書類に署名してあると警察沙汰になった場合職業上困る立場になる」と忠告してくれたのでその人は慌てはためき「名前を外してくれ」と言い出したので、相手方は驚き急転直下「無かった事にしてくれ」と言い出し解決になったものと思います。  あれもこれも皆母の指図に従って動いたことで今になって母の先見性・偉大さが偲ばれます。この土地に家も工場も建てられて今日あるのも皆母のお陰です。    かあちゃん、本当に有難うございました。合掌 山ちゃんの瓦版 第93号

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