そうやさんの瓦版 03

鹿沼市に先人記念館を!

写真  平成13年7月28日鹿沼企業人の会員39名で新潟県長岡市に行き、長岡西ロータリークラブの皆様の好意で、長岡図書館長稲川明雄先生に米百俵の講演を聴くことが出来ました。そのことは今も脳裏に深く刻み込まれ忘れられません。講演会後、先生の案内で米百俵の主人公小林虎三郎の墓地に詣うで、次に山本五十六元師の生家を見学し、最後に長岡図書館の元祖とも言える互尊舎を見学させて頂きました。一抱えもある樹木の木立の中にひっそりと建つ3階建の中には、戊辰の役以来長岡のためになられた小林虎三郎をはじめ、河井継之助、三島億次郎、山本五十六元師等、隙間も惜しむほど展示されていました。この様な資料館が欲しい、鹿沼にも偉い先生が居るはずだと思って帰って来ました。後で稲川先生にうかがったところ、熊本市と盛岡市にあると教えられて早速企業人の会の有志と計り盛岡へ行き見学をして来ました。盛岡市制100周年記念事業の行事として造ったそうで、それは立派なものでした。新渡戸稲造、米内光政、金田一京助は1階大きな特別室で、2階には石川啄木、宮沢賢治をはじめ120名余りの先人が飾られていました。  帰鹿沼後、鹿沼のこれと思う先人を選出したところ、同数ぐらいの人物が居るのが判明し たので、阿部市長さんにお話したところ、大変乗り気になってくれました。記念館はすぐには出来ないが今度新たに出来る文化活動交流館の郷土資料展示室にとりあえず、次の人達がパネルで紹介される事になり大変喜ばしい事であります。市長の英断に感謝申し上げます。必ず教育に役立つことでありましょう。市民の一人として、また企業人の会としてまた企業人の会としても喜ばしい事であります。   鹿沼市郷土資料館展示室に紹介される人物     荒井彦宗 石塚直吉吉明 石山寅吉 猪野省三 大谷瀬平 柿沼竹雄 木村庄之助  高山角造 小久保六郎 島多訥郎 鈴木金一郎 鈴木石橋 鈴木要三 高内鉄蔵  高久靄香@高橋元四郎 千葉省三 野並茂吉 長谷川宗召 半田良平 福田代造  細川主税佐正義 山口安良 湯沢三千男   名誉市民  奈良武次 古沢俊一 飯塚 毅                       山ちゃんの瓦版 2002年10月発行   第45号

小・中・高等学校 五日制について思う

写真 今年から、小・中・高等学校が土曜日を休校にして、ゆとりある学習を行うということになりましたが、私は非常に疑問に思えてなりません。それは、私が中学校に入学したのが昭和18年だったと記憶しておりますが、その秋には農家の稲刈りに動員されました。2年生になった春は田植えの手伝いと称して、兵隊に召集された羽黒村中里の農家へ約2週間泊り込んで動員されました。戦時中なので作業服などなく着の身着のままの状態で洗濯などしたのかどうか記憶はございません。履物もなく裸足でした。その秋は稲刈りに同じ家に行かされ同じ期間手伝いをしました。農作業の合間が授業ですが、また動員がかかるという気持ちと作業から学業に上手く切り替えが出来ない状態でした。 翌年の1月にはもっとすごい動員令がおり、学徒動員で中島飛行機製作所通勤でありました。暖房など無く所々に置かれた石油缶に建築廃材がくべていぶっているだけで、学徒には当たることは出来ず、フライス盤1台に1個の裸電球に触れて手を温めるだけでした。 学生服など無く軍隊のお下がり服のまま、鹿沼駅から鶴田駅まで汽車で通い、洗剤も無く油にまみれたまま乗車しました。悪臭などと感じてる間もない毎日でした。昭和20年8月15日日本は敗戦となり、学校へ戻ることは出来ましたが、教科書もノートもなく今日から授業だといわれても入りこめませんでした。 そのままずるずると、ろくな勉強も出来ずに国の為とはいいながら学べなっかたことに悔いが残ります。ゆとりある教育とは何なのか、意味が理解出来ません。鉄は熱いうちに打てという言葉があります。彼等の若い脳はいくら鍛えても疲れはありません。一晩寝れば回復してしまいます。週5日制などはもっての外だと思います。アインシュタインの脳でも5%しか使われていなっかたそうです。 5日制の学習は、将来日本がアジアの劣等国になる原因の1つになる恐れがあるような気がします。    山ちゃんの瓦版 2002年11月発行   第46号

三島町に学べ!

写真 今日の日本は、一喜一憂でなく無喜十憂であります。構造改革が先か経済再建が先か鶏と卵の関係であります。 特にボス猿、ペットが野生化して食いついたら指も切ってしまう亀や、化け狸等横行している感の人、700兆円以上もある借金の上積みをしようと考えている人、まだ高速道路にしがみついている人、国民の苦悩も知らずに何の具体策もなく活躍しているふりをしているバッチ族を整理しないと構造改革も経済も改善出来ません。現状維持のままの改革など虫の良い話はありっこありません。 或る県知事が分度推譲立県を推進しようとすれば、意味が理解出来ないバッチ族が居ると聞きますが、本を読んで勉強すべきと思います。これを説いたのは二宮金次郎で、至誠勤労、分度推譲の精神は最も民主主義の先端をいく哲学で、彼は一生それを実践した世界唯一の人物であります。バッチをつけている人は、批判をする前に彼の足跡を学び、改革とは何か経済とは何かを知るべきと思う次第です。今回、改革町おこしに真剣に取り組んでいる町の姿を見て来ました。その町は福島県大沼郡三島町であります。それは平成14年12月5日、東京晴海のトリトンスクエアーの第一生命ホールで行われた「みしま桐セミナー」であります。失礼な言い方ですが人口2500人足らずの町が、なぜ晴海でセミナーを実現させたのか不可解であります。福島県でやるのが普通であります。それを東京の晴海でやった事は、想像すれば桐の町三島を世界に宣伝する事に通じ、なみなみならぬ町おこしに桐の本物思考を訴える行動と考えられます。三島桐の箪笥や箱物を作っていましたが、新たに楽器作りに挑戦する町の心意気に感動しました。ただ不景気だと嘆かずに前向きに思考し実行できるネタを探す事が肝心です。来るのを待つだけでなく出るべきであります。国民もバッチ族も鹿沼市も中小零細企業も足の引っ張り合いをせずに、三島町に見習って頑張りましょう。三島町万歳!       平成14年12月7日      山 崎 宗 弥 山ちゃんの瓦版   第46号

新しいランドセルに道徳心を入れて下さい

写真 新しいランドセルに道徳心を入れて下さい。 まあたらしいランドセルを背負った新入生の姿を見られるのはもうすぐであります。中身はまだ夢も希望もつまっていないかも知れません。これから6年間に各人各様にいろんな物がつまるでしょうが、必ず詰めて欲しいものが一つあります。 それは道徳心であります。各学年ごとに理解度は違いますから、学年ごと理解出来るように優しく指導する事が必要かと思えます。毎日のようにテレビ等で殺人事件が報道されています。どの事件の当事者を見ても少なからず教育を受けた人に見受けられますが、学力だけで道徳善悪が判断出来ないのかも知れません。道徳は何の知識もないうちに、イロハやその他の教育をする前に一番先に教えるべきと思います。道徳を知らぬ子供に知識を与える事は善悪を判断出来ずに凶器を与えるようなものと考えられます。道徳教育は何時から無くなったのか。    昭和20年8月15日、日本が敗戦国となり無条件降伏をし占領軍の統治下となり教育法も変えられてしまいました。修身も公民も廃止されてしまい教育勅語は消されてしまいました。以来道徳心は学ぶ機会は無くなり、以降60年政治家も何もかも腐敗し、平気で親が子を子が親を、まして他人を殺す事はへのカッパ、何とも感じない社会が出来てしまいました。憂慮すべきであります。 早く対策を立てて道徳心の高揚に務めなければ日本国の将来は危うくなります。先ず新しいランドセルに道徳心を入れて下さい。

卒業する生徒に野並茂吉の話が出来て

写真 卒業する生徒に野並茂吉の話が出来て  この度、緑が丘小学校の福田先生より、今年卒業する生徒の励みになる話を聴かせてくれないかと電話がありました。突然の話なので驚きは隠せませんでした。何で私なのですか?と聞き返したら、Yさんから紹介されたと言われました。Yさんは種種お世話になり尊敬している方なので、断るわけにいかずお引き受けしました。 福田先生とお会いして打ち合わせしましたら、先生はその時に泣Aドエスピー発行の倶楽部21をお持ちになり掲載されていた崎陽軒のシュウマイの創始者の野並茂吉氏の話をしてくれと依頼されました。 2月27日午後2時、上手に話しが出来るかなど心配しながら会場に入りました。元気な声に迎えられ一瞬60年前12歳当時を思い出し私にもこんな時代があったんだなーと思い出し、この子供達が立派に成長して頂くように役立つような話をしなければならないと感じました。 私事になりますが小学校卒業の時は太平洋戦争の最中で、中学2年の昭和20年8月15日に日本が敗戦となりろくな勉強も出来ずに昭和23年3月に卒業となり、社会に放り出されたようなものでした。それから54年たち感無量なものありました。 野並茂吉さんは、明治21年に生まれた人で今より100年以上も前の人でありますので、時代感覚はすごく違うので説明に苦労し、皆さんに理解出来なかったのではないかと心配しましたが、熱心に聴いて下さいました。     後日福田先生より生徒さんからの手紙を頂き理解出来た様子をうかがい知る事ができました。誰もが努力を惜しまず野並茂吉さんをお手本にしていく決意の程が示されていました。 下手な話でありましたが話しをさせて頂いてやりがいがあったなと感激しております。国で一番大切な教育にたずさわっている教育者の皆様にお礼申し上げるとともに、この機会を私に下さった萩原校長先生、福田両先生に感謝申し上げます。 平成15年3月18日 取締役会長 山崎宗弥   山ちゃんの瓦版 第49号

崎陽軒のシュウマイ

写真 山ちゃんの瓦版第49号に掲載しました、卒業する生徒に野並茂吉氏(横浜崎陽軒の創始者)の話をしましたその後日談を紹介させていただきます。生徒全員が書いてくれた手紙のコピーを崎陽軒の取締役会長の野並 豊様に送ったところ、次のように礼状が届きましたのでその全部をご紹介致します。 拝啓 春暖の候益々のご清栄慶賀の至りに存じます。平素は父 茂吉に対し鹿沼の出身者として何かとご紹介の場を持って頂き恐縮に存じております。今回は又緑ヶ丘小学校にて父 茂吉を紹介するご講演をされたとの事、有難く厚くお礼申し上げます。「日本一になるという夢に向かってつらくとも悪さをしないで努力してすごいと思いました」「僕もこれからも頑張って日本一の人になってみたい」「人間頑張れば何でもできる」「一つの事をあきらめないで悪い事もせずに一生懸命続けられた事はとてもすごい、誰でもあきらめずにやれば成功できる気がします」「僕も崎陽軒のシウマイが食べたくなりました」 生徒さんの反響も素晴らしくいかにお話が感動的であったか又生徒さんの心を動かし奮起させる動機になったかその感想文の一枚一枚を拝見するだけでも手に取るように感ぜられます。本当に有難うございました。なおお一人の生徒さん市川大介君から「茂吉さんのお母さんはどんな人なのでしょうか」の質問がありましたのでお答えしますが、茂吉の父親は比較的長寿を保たれたので孫である私も親しく接し充分承知しているのですが母親は若くして亡くなられた為直接お会いしたことはありませんので詳しい事はわかりません。しかし子供に対しては愛情と共に一面厳しく育ててきたようで又農家でしたから畑仕事にも熱心であったと聞いております。いずれにせよ山崎様が生きた教育、貴重な人作りをされておる事に心から敬意を表する次第にて教材となる父 茂吉がその期待に沿う人物かどうかはわかりませんが何分にも宜しくお願い申し上げる次第でございます。桜の季節を迎え感想文を寄せられた生徒さんも皆中学生になられた事と思いますが皆様の益々のご健勝ご活躍をお祈り申し上げご挨拶とさせて頂きます。敬具 山ちゃんの瓦版  第50号  

分度推譲とは

写真 分度推譲とは 平成15年2月11日。栃木県知事福田昭夫氏が「いま分度推譲のとき」と言う本を発行なされました。この言葉は二宮金次郎の仕法「至誠・勤労・分度・推譲」の哲学格言の一節であります。文字の通り説明すれば、至誠とはこのうえなく誠実なこと、勤労とは務め働くこと、分度は自己の社会的、経済的実力を知り、それに応じて生活の限度を決めること、推譲とは他人を推薦して自ずからは譲ること。平たく言えば真心を持って働き自分の経済力に応じた自活をしその余力を他人に譲ることであります。さらに言えば人間愛を持って汗をかき働き、自分の能力に応じた生活をしその余力を困っている人に譲りボランテアに利用する事と考えます。 最近、ある有名な尼僧の方が法話の会を毎日行っておりますが、その法話の中で「忘己利他」と説いております。これは己を忘れ他人に利益をもたらすことの意味と思われます。これは、信心が過大になると大変なことになりかねません。一般的には家庭や家族があり、のめり込んでしまうと家庭の破滅になってしまいます。似た精神に「自利利他」と言う言葉があります。これは自利とは利他を言うと読みまして、自分が利益を得たければ先に他人に利益をあたえた後に自分が利益を得ることであります。他人に利益をあたえると言うことは、良い仕事、良い商品を提供しそれによってお客様が利益を得てそれの感謝の気持ちを持って支払いをして頂くのが自利であります(ギブアンドテイク)。自利利他は仏典大乗菩薩道の精神であります。福田知事が提唱している「分度推譲立県、いま分度推譲のとき」は正に自利利他の精神に適合するものであります。県民各自が分度をわきまえ他人に譲り合う事は県民全員が幸せになる事の基本原則であります。そして、県民に夢と希望を持たせる事が町おこしの原点であります。分度推譲は金次郎が死ぬまで自利利他の精神を貫き通し実践した二宮仕法の典型的なものであります。 ご承知の事とは存じますが、二宮金次郎は小田原藩主大久保忠真公に無理矢理に依頼されて、現在の栃木県芳賀郡二宮町界隈の小田原藩の飛地の疲弊した領地の復興に一生を賭けて成功した人物であります。彼の事業の成功は広まり、北は福島県相馬地方、南は静岡県掛川地方にまでに及び多くの藩が指導受けるほどになりました。農業の改革者だけでなく思想的・経済的にも先駆者で、150年も前に口には出してはいないが民主主義の考えを持っていた第一人者であります。 彼の仕法は国際的にも認められ始め、国際二宮尊徳思想学会が発足し、会長には北京大学文化研究所長の劉 金才氏が、理事長は小田原市報徳二宮神社宮司、報徳博物館長の草山 昭氏が選出され福田昭夫知事が顧問、今市市教育長木村 浩氏が理事に就任されました。本県のため一番功績、ゆかりのあった金次郎について県民は姑息な考えを捨てて理解を深めることが、かんようであります。分度推譲立県発祥の地として自覚を広め更に分度推譲立国となるように努力をすべきと考えます。 取締役会長 山 崎 宗 弥 山ちゃんの瓦版  第51号

三島よいとこ

写真 三島よいとこ 平成5年より始めた福島県大沼郡三島町内を流れる只見川への錦鯉の放流は今年で10年となりました。放流の経緯は山ちゃんの瓦版で前に紹介しましたが知らない方もいると思われますので簡単に説明致します。平成5年のゴールデンウィークに奥会津地方で遊んだ時に偶さか三島町西方西隆寺に参拝した際にその席で「どちらからこられましたか」と尋ねられたので「栃木県鹿沼市から来ました」と答えたところ、誰かも知らぬ他の人から「鹿沼の人は山の物も川の物も根こそぎかっぱらっていってしまうから、鹿沼は悪い奴らだ」と言われ「そんな事をしに来たんではない」と席を蹴って帰りました。その言葉が気になり鹿沼市の汚名を挽回するために錦鯉の放流をその年から始めたのでした。最初の頃は信用されず町の人は誰一人関心を持ってくれませんでしたが、5年目ぐらいから町役場も漁協の人も興味を持ってくれるようになりました。しかし、天下の只見川、大きすぎて鯉影は見えません。町の人からは慰めに言ってくれるのか、錦鯉を釣ったとか、見た人が居たとか言ってくれますが年に2,3度遊びに行く位では会うことは出来ません。分度を過ぎた浅墓な事をやってしまったと思いながら10年が経過してしまいました。今年は満10周年。記念の為に約80cm位の紅白を筆頭に大小織り交ぜて50匹位7月21日に放流します。何やかにやと少こしずつ信用されて三島町での催しがあると連絡が来るようになりました。三島町では只見川のダム建設の盛りの時にはダム景気で8000人もの人口がありましたが、完成後は過疎化が進み現在は2500人を切るようになりました。斉藤茂樹町長は一生懸命に町おこしに取り組んでいます。去年12月5日、東京晴海トリトンスクエアで行った「みしま桐セミナー」も一例です。それを聞きに行きまして町長の町おこしの情熱にほだされて鹿沼で町おこしの話をとお願いしたら快諾してくれ6月28日、鹿沼商工会議所会頭との熱血トークが行われたのであります。聴衆は斉藤町長の三島町の具体的な町おこしのトークに感激し聞き惚れて喜んでおりました。鹿沼市でも聞き流さずに学び木工の町に恥ない当市の伝統工芸を復活させるべく努力が必要であります。三島町は只見川をはさみ風光明媚な所で温泉宿もあり、湯は豊富で宿の前の地面から湧き出してる所もあり余りの湯は川に垂れ流し、お湯も良ければ人情も熱く、見る所も沢山あります。道程は磐越高速道で猪苗代湖を左手に、右手に磐梯山を望みドライブしながら若松を過ぎてから柳津坂下インターを降り国道49号を突っ切り道なりに柳津町を通り次が三島町です。百聞は一見に如かず1度ドライブはいかがですか。詳細はご一報下されば説明致します。平成15年7月18日 山崎 宗弥 山ちゃんの瓦版 第53号

新潟県長岡市の米百俵時代祭り

写真 去年の10月、新潟県長岡市の米百俵時代祭りに企業人の会が、長岡西ロータリークラブより招待されたので企業人の会員6名で参加見学をしてきました。その時代祭とは市長を始め市の著名人が、戊辰戦争の役の戦で武士の河井継之介や小林虎三郎に扮装し、市民も鎧を着用し長岡藩士と官軍との攻防戦を長岡駅前の大通りで再現して見せていただきました。我々の席は、警備本部前に栃木県鹿沼市と書かれた特別席を設えていただき、大変恐縮して見物することが出来ました。 今年は鹿沼55周年を迎えるので、今宮神社の秋祭りとぶっつけ祭が国の無形文化財になって初めての年なので、鹿沼市各町の彫刻屋台合わせて総数27台(文化財指定14台)が繰り出す事に決定しました。総数が繰り出されるのはめったにないので、去年招待された長岡西ロータリークラブに連絡し招待を申し上げたところ10名の方々が来てくれました。神社に繰り込んだ屋台をみていただいたところ、全員の方がして見いっていました。夜になり提灯に灯が入り屋台がいっそう美しく装厳を増すと、総立ちになり歓声があがり胸踊り感激にふけりました。長岡の方も同様でありました。長岡市は、戊辰戦争とB29の爆撃にあい町中が灰燼にきして文化財的なものは皆無になり、鹿沼に立派な文化財があるのを大変うらやんでおられました。「この文化財は、どこかに一堂に展示されたいて何時来ても全部見られるのか」と質問されましたが、「年に一度だけで後は倉に収納されていて見られません」と返事をしたら、「それでは駄目ですね。何時来ても全部が見られるようにしなければ、日本一の数と立派なものが宝の持腐れになってしまいまうよね」と注意されました。もしそれが実現されれば鹿沼市は日本一のの屋台の町として観光客がたえなくなるでしょうと教えられたり。招待したお客様に喜ばれ大変意義ある民間外交が出来ましたことを報告してそれが実する事を願うものです。 山ちゃんの瓦版 第56号

経営革新計画の承認について

写真 この度弊社は、ITS関口会計事務所の本間和一様のご指導により、経営革新計画の承認を受けることが出来ました。(経支45−43号 平成15年11月10日)。大変名誉なことでありますが、責任重大であります。経営革新計画というと大げさに聞こえますが、弊社のものは大して大げさなものではありません。ただ、お客様の自動車の安全走行は何が一番かというこ事と、喜ばれる事は何かというこ事を基本に考えた事が承認されたのであります。簡単に述べさせて頂ければ、咋今自動車の性能が良くなりお客様は故障など無いものと思い込み、オイル交換も知らない方もいるようです。したがって、乗りっぱなしで定期点検をする人は皆無な状態であります。これをなんとしようと思い立ち会費制で3ヶ月毎に点検して頂こうと考えたのが、オートメンテナンスクラブであります。会費は廉価でお客様に負担が感じられないようにと考えたものです。オートメンテナンスに入会して頂いたお客様の評判も良く新会員も増加中であります。何事もお客様の側に立って考える事が必要かと思います。何の変哲もないような事柄ですが、これが経営革新計画の承認を頂くとは汗顔の至りであります。これからも社員一丸となって恥じないような経営に努力する覚悟であります。どうか入会ご希望の方はご来店下さい。詳細はその折に係りの者がご説明致します。お客様の安全走行と良い新年をお迎え出来ますように祈りながら、経営革新計画の承認が受けられたことをお知らせ致します。1年間ありがとうござました。来年もよろしくお願い致します。 山ちゃんの瓦版 第58号

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